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第2話 零時に執行される契約

Autor: みだん
last update Data de publicação: 2026-10-26 18:53:28

翌朝、リゼットが案内されたのは、契約院の最上階の突き当たりにある研究室だった。

扉を開けた瞬間、紙の匂いが押し寄せてきた。

床から天井まで届く書棚はとうに満杯で、あふれた本と書類が、床の上にいくつもの塔を築いている。

窓から差しこむ朝の光さえ、紙の山に遮られて、部屋の奥までは届いていなかった。

「やあ、来てくれたね、ベルナール嬢。足元に気をつけて。右の塔は崩れやすい」

紙の山の向こうから、テオドールの声がした。

言われたそばから右の塔がぐらりと揺れ、リゼットは慌てて身を引いた。

「先生、崩れやすいと分かっているなら片づけてください」

書棚の陰から、もう一人、青年が顔を出した。

テオドールよりいくらか年下だろう。

きちんと留めた襟元と、真っすぐに伸びた背筋がこの部屋の中でひどく浮いて見える。

「助手のルネです。先生の研究の手伝いと、先生の生活の手伝いをしています。後者のほうが、ずっと忙しいですが」

ルネは淡々と名乗り、机の上から三冊の本を取り上げた。

表紙も厚さも、まったく同じ本だった。

「ちなみにこれは、先生が今月買ってきた同じ本です。三冊目です」

「待ってくれ、ルネ。一冊目は書き込み用で、二冊目は――」

「二冊目は、一冊目がどこに埋まったか分からなくなったから、でしたよね」

言い返せずに黙りこみ、えんじ色のくせ毛をくしゃくしゃとかき乱す公爵を見て、リゼットは思わず口元を押さえた。

昨日窓口で見せた鋭さと、目の前の頼りなさが、どうにもうまく重ならない。

それに、さっきから指先がうずいて仕方がなかった。

あの書類の塔を、日付順と種類別に並べ直したい。

家の帳簿を毎晩そうしてきたように、きちんと背をそろえて棚に収めたい。

初日から口に出すわけにもいかず、彼女はその衝動を、そっと胸の奥にしまいこんだ。

彼女に与えられたのは、臨時の査読係という仕事だった。

契約院に持ちこまれる契約書を登録の前に読み、矛盾や不備がないかを確かめる。

「書記たちは、条文の数を数えて、印を押す場所を確かめるところまではやってくれる。だが、中身を最後まで読む者はいない。君の仕事は、その最後までだ」

テオドールはそう言って、さも名案を思いついたという顔で笑った。

窓際に一つだけ空けてもらった机で、リゼットは午前のあいだに十二通の契約書を読み終えた。

そのうち三通に、条文どうしの食い違いが見つかった。

馬の売買の契約書には、この国の暦に存在しない「二月三十日」が引き渡しの日として書かれていた。

リゼットは持参した赤インクのペンで、該当の行に小さく印をつけていった。

昼過ぎ、書類を届けに来た年配の書記が、彼女の机の上をのぞきこんで目を丸くした。

「三通も。顧問が連れてきただけのことはありますなあ」

「顧問は、いつもあんなふうに人を雇うんですか?」

「いやいや。窓口で人を拾ってくるなんて、前代未聞ですよ。何しろ、ご自分の研究以外にはまるで興味のないお方ですから」

書記は声をひそめ、なぜか誇らしげに付け加えた。

「ですがね、腕は本物です。顧問の書いた魔法は、これまで一度も誤作動したことがない。この契約院で、それを言える魔導契約士はあの方だけですよ」

書記が去ったあと、リゼットは給金の書かれた雇用の覚え書きを取り出した。

臨時の査読係の給金は、令嬢の小遣いとしては破格と言っていい額だった。

それでも頭の中で、あの借用書に記された金額を、この給金で割ってみる。

三十七年。

彼女は窓の外の空を眺めた。

雲が一つ、ゆっくりと流れていく。

三十七年後、自分は五十七歳だ。

叔父の言う期限は、一か月。

父には契約院で臨時の仕事を見つけたとだけ話してある。

父は「無理はしないように」と笑ってくれたが、その笑顔がいつもより少し弱々しかったことを、リゼットは見逃さなかった。

叔父にはまだ何も言っていない。

リゼットは結んだ髪からこぼれた後れ毛を耳にかけた。

考えごとをするときの癖だった。

それでもこの仕事を引き受けたのは、給金のためだけではなかった。

ここにいれば、あの借用書の原本と同じ建物にいられる。

点のない署名のことを調べる機会も、きっとあるはずだった。

夕方近くになって、階下がにわかに騒がしくなった。

西日が研究室の紙の山を赤く染めはじめたころ、ルネが一人の老人を連れて戻ってきた。

老人は年季の入った上着を着て、節の目立つ両手で帽子を握りしめている。

その指先に、長年インクを扱ってきた者らしい染みが薄く残っていた。

「先生。窓口では手に負えないそうです。魔法印の執行の件で」

「プリュム文具店のアンリと申します。どうか、お助けください」

老人は深々と頭を下げた。

プリュム文具店。

リゼットはその名前に聞き覚えがあった。

王都で一番古い文具店で、契約院の指定店として、魔法印に使う契約インクも扱っている店だ。

子どものころ、母に手を引かれて、一度だけ訪れたことがある。

アンリの話はこうだった。

三十年前、店を建て直すために、旧友の商人から金を借りた。

その担保として、店の権利を差し出す契約を結び、契約院の魔法印を押してもらった。

借りた金は二十年前に返し終えている。

ところが旧友は、完済の届け出を契約院に出す前に、急な病で亡くなってしまった。

「受取証も、どこへしまったのか……。あいつは、いずれ届けておくと笑っていたんですが」

アンリの声が震えた。

五十年近く、毎朝欠かさずに店の戸を開けてきたのだという。

「用心深い男でしてね。わしのような者に金を貸すときでさえ、契約書は三日もかけて自分で書いたんです。そのあいつが、届け出だけは忘れていくとは」

契約書には三十年目の春の定めの日、その零時までに完済の届け出がなければ、担保は債権者のものになると書かれている。

その定めの日が、今日だった。

旧友の債権は遺言によって王都の商人組合に移っているという。

「組合の方々も、店を取るつもりなどないと言ってくださいました。ですが、魔法印が執行してしまえば、自分たちにも止めようがないと」

テオドールがアンリの差し出した契約書の上に手をかざした。

インクで汚れた指先が魔法印の縁をなぞるように動く。

印の光が彼の指に呼応して、かすかに脈打った。

「……いい術式だ。執行の条件にも手順にも、穴が一つもない。三十年前に、こんな丁寧な仕事をした契約士がいたとはね」

「感心している場合ですか、先生」

「感心するしかないんだよ、ルネ。今夜の零時、この魔法は必ず執行される。僕にも止められない」

研究室がしんと静まり返った。

アンリの手の中で、帽子のつばがくしゃりと潰れる。

ルネは唇を噛んで目を伏せ、テオドールでさえ、黙って契約書から手を離した。

窓の外で、夕刻を告げる鐘が鳴った。

零時まで、あと七時間ほどしかない。

リゼットは黙ったまま、机の上の契約書に手を伸ばした。

一枚目。

二枚目。

回りくどい言い回しが続く条文を、一行ずつ目で追っていく。

魔法の構造に穴がないなら、残っているのは文字だけだ。

そしてこの契約書を、まだ最後まで読んだ者はいない。

「ベルナール嬢?」

テオドールの声にも、彼女は顔を上げなかった。

「まだ、最後の一行を読んでいませんので」

誰もが諦めかけた研究室で、リゼットだけが静かに契約書をめくり続けていた。

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